ものかきさんに100の質問。/ものかきさんに100のお題。

ものかきさんに100のお題。

2.温度

 視られているのです、彼女は言った。じっと見られているのだと。思えば彼女は「見られている気がする」とは言わなかった。
 それから「視線に温度はあるのかしら」と言った。そして「あるのでしょうね」と、きっとそうだというように口の中で呟いた。
「熱い視線という言葉があるでしょう。きっと温度があるんですよ」
 ようやく彼女は私の方へ視線を戻した。いや彼女は先ほどから私から目を背けていた訳ではないのだから、焦点を合わせたというべきだろうか。短い思考の旅からこちら側に戻って来たのだ。
「ほら、気功ってあるでしょう?」
「あの、手を触れずに人を倒したりする、あれですか?」
「そう。人を治したりもする。あれって、手から何か目に見えないエネルギーが出ているんですよ。ええと何だったかしら。そう、サーモグラフィ? あれで見ると手をかざしたところは温度が高くなっているんですって。だから――」
 視線も同じだと? そう私が続けると、彼女はそう、と頷いた。
「焦点って言葉だって、レンズで光が集まった箇所が焦げるからそう言うのでしょう? それと一緒で」
 それはそうだ。が、瞳の場合光が集められて像が結ばれるのは網膜であって、外側の対象に向かって何かを発している訳ではないだろうが、本題ではないので口にしなかった。
「それで、熱い視線というのがあるのだから、冷たい視線、というものもあるとは思いませんか」
「冷たい視線、ですか? ――普通それは、馬鹿にしたり軽蔑して見るときとかに使われる表現ですけど」
「そういうものではなくて」
 温度、か。とはいえ、熱い視線だって恐らく実際に温度が高いのではないのだと思うのだが、彼女はそうは思っていないようだ。
「私を見ている視線は、冷たいのです。じっと見られているのだけれど、とても冷たいのです。幽霊、って、冷たいのですよね? いると寒気がするとか、触れられると冷たいとか。だって、死んでるんですものね。冷たくて当然です」
 だからきっと――幽霊の視線は冷たいのじゃないでしょうか。
 どうも自分で言って自分で納得するのが彼女の性質のようだ。それはともあれ、視線の主が幽霊とは随分な飛躍だ。
「視られているというのは――常になのですか? 今も?」
「いいえ、今は、その大丈夫です。視線を感じるのは、大体は夜で。部屋で布団に入っているときが一番多いです。天井が見える所為かも知れません――いえ、その、天井しか見えない、というか」
 視点が固定されるから、だろうか。天井裏に誰かいると言い出すことはなかった。彼女の中でその視線は人の発するものとは位置付けられていないのだろう。
「その冷たい視線に、その、感じてしまうのです」
 はぁ、と私は間の抜けた生返事をした。彼女の言う意味をよく理解していなかった為だ。
「あの、恋人がいて、その――最中に視線を感じると、視線に……」
 私の無反応に困り言い辛そうに言い募る彼女を見て、私はやっと彼女の言葉の意味することを理解した。ひどく遅れて、慌てた。
「あの、私、おかしいんでしょうか」
 切迫した様子で詰め寄られて、私は返答に窮した。何を訊かれたのか咄嗟にわからなかったのだ。
 他人に見られることで興奮を覚えるのは程度の差こそあれそう珍しいものでもない。他人の視線を感じるというのは一種の神経症であろうが、それが幽霊のものだと主張するとなると、それとも少し違う気もする。
 視線を感じ、その上で行為をする中で――というのであればともあれ、そうでなければ感じられない“から”視線を自己の中で捏造したのであれば、それはまた問題が異になろう。冷たい視線を受けて熱く感じるのだと――それはやはり「侮蔑」の意なのか?
 いや、違う、私は何を考えているのだ。彼女はそんなことを言いに来たのではないだろう。浮かびかけた猥らな妄念を打ち消す。
 おかしいかと問われれば、彼女自身そう思っているからこそ、ここを訪れたのだろう。であれば、いずれきっとこの問題はそう難しいことではないだろう。
「わかりました。今回のところはこれで。薬を出しておきましょう」
 彼女はまだ語りたそうにしていたが、ありがとうございましたと平凡な礼だけ口にして退室した。
 くるりと椅子ごと机へ向き直ってカルテを書き付ける。背中に視線を感じた。
 彼女がまだそこにいるのかと振り返ろうとして、さっきドアが閉まる音まで見送ったのを思い出す。ドアの音はあれきりだ。誰もいる筈はなかった。
 寒気を、感じた。

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